国立大卒の陰キャニートによるブログ

23歳、どうしようもないニートの雑記。

人を「底辺」と呼ぶ人たちが嫌いだ

世の中には、警備や介護、現場作業員や介護職を「底辺」と

      低学歴の人たちを「底辺」と

呼ぶことに、何のためらいもない人たちがいる。

 

しかし、そういった人たちが「底辺」とののしられる理由は何だろうかとみてみると、「なんの能力もスキルも持ち合わせておらず、だれでもつける仕事にしかつけないから」なのだそうだ。

 

なんて傲慢なのだろうか。

 

一般の人間は「能力もスキルも」持たないものがほとんどだ。しかし、新卒や資格によって、「無能」な人間でも生きられるような社会になっているのだ。

なぜ彼らは有能側の立場に立ってものを考えられるのだろうか。

百歩譲って、経営者や実業家がこれを言っているならば一理ある(一理しかないが)とも言えなくはないだろう。(自らが雇う労働者に対する侮蔑ともとらえられそうだが)

しかし、何故か日本の正社員がこれを言っている姿には非常に疑問を抱く。

 

なぜ自分が「有能」で「能力もスキルもある」側だと「勘違い」できるのか。

はなはだ疑問である。

 

「多くの正社員」は無能だ。

彼らの理屈で言えば、多くの正社員は「無能」で「底辺」だ。なぜなら、「誰でもできる仕事」を「何の能力もスキルもない」人間がこなせるというのが、世間一般で言う「正社員の仕事」だからだ。

 

なぜそう言えるか?簡単だ。それは「新卒一括採用」が「能力」を判断して採用した形式ではないからだ。

彼らは無能だから、就職をし、自ら稼ぐ能力がないから、「会社に勤めている」のだ。

 

わずかな虚栄心と臆病な自尊心

誰でもできる仕事は別にあなたがやらなくてもいい仕事だ。

それはほとんどすべての仕事であって、底辺仕事と呼ばれる仕事だけではない。

ではなぜ、底辺仕事は「底辺」とバカにされるのか。

 

それは、底辺仕事と呼ばれる仕事と「普通の仕事」には社会で言われているほどの差異がないからだ。

確かに待遇面では違いはあるだろうが、どこの業界でもブラックはあるし、ホワイト(高給)の仕事というものはあるものだ。

そんな中で社会の歯車として、しかもいつでも替えの利く歯車として働かされる社会人は「自らの自尊心」を保つことが出来ないのだろう。

だから、下?のような存在を見て、自尊心を保とうと必死なのだ。

「あいつらはみじめな奴らだ」「あいつらは底辺だ」

そう言い聞かせることで「自分はあいつらとは違う」と思い込みたいのだろう。

実際には大した違いなどないのにも関わらず。

 

多くの人間は「底辺」だ。

一部の人が底辺なのではなく、「有能」以外みな「底辺」なのだ。

どんな罪でも犯罪を犯せば「底辺」

どんな人間でも「自分の力だけで食えなければ」無能である。

だから、人に「底辺」と言えるのは、「自分が特別な才能を持っている場合」だけだ。

 

そうでなければ、「お前が言うな」「団栗の背比べ」状態になってしまう。

趣味と特技の違いってなんだろう

よく履歴書を書くときに、特技欄と趣味欄がわかれているものを見るけど、あれは何なのだろうか。

正直、趣味も特技も同じにしか見えないのだが。

だってさ~

どっちも「好きで得意」なことを書く場所でしょ?

「趣味=好きなこと」で「特技=得意なこと」なんだろうけどさ、

得意でもないことを趣味って言いずらいし、

好きでもないことを特技って言いずらいよね。

今日は趣味と特技のラインについて考えてみるよ(俺個人の見解です)。

 

趣味は「毎日継続していること」

俺が思うにさ、趣味って「継続性」があることが重要だと思うんだよね。

だからめっちゃ好きだけど週一でしかやってません!ってのはあまり趣味っぽくないよね。

まあアウトドア系ならわかるんだけどさ、

それでも「月一で山登ってます」とか、「ワンシーズンに一回キャンプに行ってます」

くらいだとさ、なんかただの「普通の人」じゃん。

インドアならなおさらだよね。

今の時代ただアニメ見てるだけなら「普通の人」で、それこそ「映画鑑賞」や「読書」並みに無難で個性がないよね。

まあ、それでも「毎日」続けてみている人は少ないだろうから、やっぱり趣味だ!と堂々と言うには「継続性」が大事なんだろうね。

 

特技は「自分の中で一番得意なこと」

特技って、趣味の延長戦だと思ってたんだけど、そんなことないよね。

例えば俺は「かるた(地元の大会で準優勝)」や「水泳(クロール14秒台)」が得意なんだけど、別に好きではないんだよね。

あと単純に「勉強」も得意だけど好きじゃない。

「自分の中で好きなことかつ、得意なこと」で言えば、5番目くらいに得意なことが「特技」になってしまう。

でもそれって、得意かと言われればそうでもないことが多いよね。

 

まとめ

この記事よんで、そんなん当たり前じゃん。って思ってる人も多分いるだろうけど。

もっと気軽に「趣味」「特技」欄について考えられればいいな・・・と思いこの記事を書くことにしました、

 

 

 

非モテは本当に性格が悪いのか?

世の中ではよく「非モテは性格が悪いからもてない」「人間性が終わってるからもてな

い」などと言われるが、実際のところは全く違うのではないかと思う。

ではなぜ、非モテは性格が悪いと言われるのだろうか(非モテ自身に問題がある場合を

除く)。

 

理由①:配偶者やパートナーがいる者たちによる建前に付き合わされる

正直言ってこれが一番大きな原因だろうと考えている。

なぜなら、「彼氏・彼女の好きなところはどこか」という質問に対してパートナーと面

と向かって「お金持ちだから」「背が高いから」「イケメン・美人だから」と答えるこ

となどないからである。

結局のところ、「本音」を言うことによって自らが「卑しい」人間であることが明らか

になってしまうので、それを隠すために「中身に惚れて~」「優しいから好き」等

の「建前」に走ってしまうのだろう。

ここで問題なのが、彼ら彼女らの一部のものがその建前を利用して、「モテる人間は人

間性が優れている」などと風潮してしまうことだ。

たしかに、人間性が優れている(誠実で優しくて寛容)者ほど魅力があるだろう。しか

し、それだけでモテるかどうかにはつながらないのではないだろうか。

人間性が優れていても、それが周知されなければ、モテることはないし、そもそも優し

くて、誠実であること(それだけの理由で)がモテにつながるとは私は思えない。

そうして、モテ=人間性という「建前」を構図化した状態になると、必然的にじゃあ非

モテは?という話になってくる。

本来であれば、非モテは行動力がない一般男性であれば、(性格いかんにかかわらず)簡単になることが出来る存在ではあるのだが、「モテる人間は性格がいいんだ!!!」というマインドのせいで、

非モテ」が性格が悪い・人間性が終わっているという風に変換されてしまうのだ。

 

モテ=人間性すべて間違っているとは言えないが、それでも多くの人は相手の「社会的ステータス」や「見た目」を判断材料として、その先に踏み込むか判断しているのではないだろうか。

 

モテ=人間性という考えは「非モテ差別」につながる恐ろしいものであると私は考える。

 

理由②:世界公正仮説

非モテはなぜモテないんだろう?

顔が悪いから?貧乏だから?スタイルが悪いから?

いや違う!!!性格が悪いからだ!!!

 

しかし、多くの人は「非モテ」の本当の性格を知らないわけである。

なぜなら「非モテ」とかかわりあいになろうと考える者はいないからだ。

 

イジメられる方が悪いという考えと同じで、

悲惨な境遇にいる者がなぜそうなっているのかを考えるときに、人は

「自己責任」なのだろうと推測してしまうのである。

 

これは、「世界公正仮説」と呼ばれるもので、モテない原因を「性格が悪いから」や「人間性に問題があるから」と

本人の落ち度」それも、「それならモテないのも仕方ないよね」「こんな奴モテないの当たり前だろう」と思われるような理屈を「憶測で」作り出すのが得意な人というのは一定数存在する。

 

理由③:非モテが「女ガ~」とかいうから。そんな奴はモテない。

そもそも、これは理屈としておかしい。

なぜなら、ネットでこのような「女性を蔑視する」発言を仮にしていたとしても、多くの非モテは「現実世界」ではこのようなふるまいをしていないからである。

 

それなのに、ネットの非モテ叩き民は自分たちがまるで「超能力者」であるかの如く、「それ、ばれてるから」

「そういう態度が表に出ているんだよ」

とのたまう。

 

しかし、考えてみてほしい。異性の性格が透けて見えるのであれば、「恋愛で失敗する男女」など現れるはずがないではないか。

 

所詮、ほかの人間が何を考えているかなんてわからないのだ。

 

それに、ネットで女叩きや男叩きをしていても(若しくはそれに近いような感情を抱いていても)、現実世界ではパートナーがいる者など珍しくはないだろう。

 

異性を叩くことは「人間としてやってはいけないこと」ではあるが、そう言った感情を抱いているかどうかというのは「実際に付き合ってみなければ」わからないものである。

 

まとめ

確かに、非モテは性格の悪いものも少なくはないだろう。

しかし、考えてもみればそもそも「男性」自体モテない生き物であるし、

モテ(というか彼氏彼女がいる人)というのは「行動力」の有無によるのではないかと思うのだ。

 

だから、「モテない奴は誰からも愛されない」

だとか、「モテない奴は性格が悪い」

とかいう発言は、

100パーセント違うとは言えないが、「モテは性格や人間性」で発生するものではない(評価対象にはなりうる)ということは言えるのではないだろうか。

 

俺が「老害」という言葉について思うこと

注意⚠これは老害擁護記事です。老害アレルギーの方はブラウザバック推奨です👴👵

―――――――――――――――――――――――

老害って言われる人に俺はあったことがない。俺自身が老害だからかな

しかし、世間では「老害」は共通認識らしいし、去年あたりに見た「赤ちゃんに怒鳴り散らす老人」の動画に関しては(見たくないのでリンクは貼らない)確かに老害感はあるものの、なんとなーく違和感があったので今回はそれを記事にします。

――――――――――――――――――――――――

老害=脳の障害?

俺がまずこの老人を始めとする「怒鳴り散らす」老害に対して思うのは、彼らは「故意」に怒鳴り散らしているわけではないのではということだ。

つまり、何かに突き動かされるようにして「怒鳴っている」ということだ。

それは何か?脳の機能障害ではないか?

それならばヒステリーや癇癪を起こす人同様、「理性」でもって抑えることの出来ない「症状」なのではないか?

もしそうならば、「老人」は、性格が悪いのではなく、脳の病気である可能性が高いだろう。

するとどうだ、誰もこの老人を非難できないのではないだろうか?

障害者とLGBTと女性は弱者

ようするに、「障害者」である「老人」は社会的弱者となり、この場合社会に迷惑をかけることは「至極当たり前のこと」であってそれを咎めてはならない()

とするのが現代社会の基本である。

そうすると、この件老人がこの「社会的弱者」に値するかどうかを議論すべきでは無いのだろうか?

これについて言及しているものはいまだかつて見たことがなくはっきり言って、国民(ネット民)は「この問題」から目を背け続け「老害批判」をしていないか。

「この老人が障害持ちなら責められない」

「この老人がゲイなら責めづらい」

 

そういった後ろめたさを持ちながら「老害」とディスってるのではないだろうか?

老害批判者にかける自己理解

俺は「迷惑な人」は嫌いだが、老害と決めつけて不快な老人を「害」のある存在だと言うことにあまり賛同はできない。

なぜなら、人間というのは「多面性」のある生き物だからだ。

社会的に凶悪とされている人物が、周囲の人物からは「優しい人間」と評されていることは枚挙に暇がない。

逆に、社会的に善良とされる人間が、犯罪や違法行為に手を染めてしまうケースも少なくない。

要するに、ひとは「優しかったり」「怖かったり」「カッコ良かったり」「ダサかったり」するものなのだ。

だから、老人の一面を見ただけで「害」と決めつけるのは早計だと思うのだ。

そして、これはニート叩きと同じように、ただの「差別主義者」が紛れ込んでいるという問題もある。

だから、俺は特定の人だけが「害」であるという「幻想」は捨てて、「害」と直接的に向き合うにはどうすればよいかを考えるほうが、「老害」と批判するよりも遥かに建設的何じゃないかと思う。

 

結論:人間皆「老害」要素を持っている

 

それが大事

金無いこと(生活保護

ハゲ出さないこと(汚い)

見栄張らないこと(就活)

電話すること

ニートになりそうなとき

それが一番大事〜

辞めないこと(会社)

金貸さないこと

タメ(口)きかないこと 

ちん〇ん抜くこと

涙見せてもいいよそれを忘れなければ😭

 

 

 

高価なスパチャを投げるより、一人暮らししてるほうが素晴らしい♥

ここ(実家)にいるだけで傷ついている人はいるけど😈

さんざん我儘いったあと、あなた(親)への思いは変わらないけど

見えてる優しさに時折負けそうになる

職に私が就けないのが淋しいのじゃなくて〜

職に私が就けないと思うことが切ない〜😭うぉぅうぉう〜💀

 

 

 

 

「つまらないという人間がつまらない」という人間はつまらない

こんにちはWIXRSSです。

最近よく聞く言葉「つまらないという人はつまらない人間だ」という格言戯言ですが、僕はむしろ「つまらないと言えるひとが面白い」のだと思います。

――――――――――――――――――――――

つまらないという感想

→「面白い」という「なんの記憶にも残らない」凡百な感想と違い、「つまらない」という言葉は制作者の心をえぐり、(たぶん)読者の心をえぐり、そして自分は好き勝手に無責任に断罪できる都合の良い言葉である。

 

しかし、私達は「悪名は無名に勝る」という言葉を知っているだろう。

 

つまり、なんの印象にも残らない「面白い」よりも悪辣な印象を抱く「つまらない」のほうが価値があるわけだ!

実際、レビューサイトや動画のコメント欄を見れば分かる通り、「面白くない」「つまらない」は大きな共感、そして反感を得られる。 

一方で「面白い」等といったところでなんの返信も評価もされずに、「壁にでも喋って」る感じになるのは正直おもしろいすごく悲しい気持ちにさせられる。

つまらないという「価値」

面白い人は「つまらない」ということに価値を見出している。

だから、配信者や評論家がつまらないというコメントを「敢えて」出しているのだ。

面白いという考えはあまり共有できないが、つまらないという考えは「強い絆で結ばれたかのような」共感のされ方をするのだ。

おもんない人はそれをしらずに、馬鹿正直に「面白い、面白い」と言う。

消費者の立場から面白さをアピールするには、ひたすら否定するか、「面白い」を超えた過激な賞賛をする必要があるのだ。

つまらないは安上がり

人間はネガティブな生き物だ。生きてる間に自殺を考えるなんて、こんなに後ろ向きな生き物はいないだろう。

だから、褒めるより貶すほうが得意な生き物なのだ。

「3貶す≒1褒める」位がストレス的にはちょうどいいくらいだ。

つまらないは価値のある言葉だ。

そして、その後に続く言葉はどんな愚者にでも思いつくことができる。

面白いという「難易度の壁」を超えられない彼らよりもつまらないと言い続ける私達はよっぽど賢く、そして面白い。

結論:私のことをつまらないという人間はつまらない

↑嘘ですすみません「面白い」です😂

とある有名人の批判(名は伏せる)

事実に反していて、

机上の空論を並べ立て、

実行(成功可能性)が低いことを述べるひと。

→「正論」ではないまたは「正論」

ではあるが、物事の「一面」しか見えておらず(見ようとせず)俯瞰的、相対的に物事を語ることが出来ない(若しくはしようとしない)人間であって、不誠実かただの馬鹿である。

正しいことを述べているように見えるのは「断言」口調であることと、論理構成に矛盾がないためであって、

一、そもそも内容に誤りがある

二、憶測で物事を話している(出典や引用を明らかにしない)

三、感情的になる時があり、その場合には自らの話を肯定しない人物に対して「バカ」と罵ったりする乙女メンタルであり、

四、ソースが自らの記憶であり、しかしそれを信じて疑わないために、証拠やその理由の説明が判然としないのに態度だけは攻撃的になるきらいがあり、「論」理構成は正しいものの、そもそも言ってることが可笑しい、内容が間違いであるケースが目立つ。

あと、人の気持がわからないらしく、彼に対して内面の相談(メンタル的なもの)をする意味がないにも関わらず、そういった客が後を絶たないのは信者が馬鹿であるからなのか、それとも教祖様が馬鹿を飯の種にするならず者であるか。

 

個人的には合理主義者件リバタリアンとしての評価は中途半端星☆☆★★★

である。確かに一貫性はある程度あるものの、ステレオタイプで偏屈なものを馬鹿にする割には自らが知らない・わからないものに対して否定的であったり、断定口調で頓珍漢な話をしている場面が目立つ。もう少し感情と理性のバランスを考えてものを言うようになれば、一定程度の好感は得られるだろう。

しかし、今のままの彼では信者若しくは彼のことを信奉することによりナニかを成し遂げんとするWannabe達にとってもの赤旗聖教新聞的な立ち位置になるだけであり、国民からの信頼を得るにはまだまだ印象が悪い。

 

説得力を「恐怖」で担保しているようだ。

 

総合評価 3/5

人間性  3/5

合理性(論理的か)4/5

コンテンツの質3/5

ファンの質3/5

話の内容(精確さ)2/5

コンテンツの質は内容の深さや面白さに関わるものであり、論理的かどうか?に関しては詭弁や屁理屈を用いていないかどうかについての評価。