国立大卒の陰キャニートによるブログ

23歳、どうしようもないニートの雑記。

ほならね理論→論点ずらしの主張である。

まず初めに言っておくが、「消費者」ができるかどうかは関係ない(フィギュアスケー  

トやお笑い等の審査員や映画・芸術評論家は「評価」することが仕事であり、「実演す

る」才能とそれを「評価する」才能は=ではないため。「できる人」しか批判してはい

けないのであれば、一流のスポーツマンを師事できる人は存在しないことになる。コー

チ制度?)

し、このような理論は「俺でもできそう」に対するカウンターとして用いると有用であ

るとされるが、このような発言はたいてい皮肉であり、下手であること、または稚拙で

あることに対する婉曲的な批判である。「俺=素人」という意味合いであり、「俺でも

できそう」という発言をされる人というのは「素人やアマチュアでも簡単にできること

が出来なかったり」「小学生の読書感想文並みの稚拙な文章力と表現力である」場合が

多く、そういったミスや愚かな間違いがあまりに目に余るクリエイターやプロ選手に対

して市井の皆さんから発せられる皮肉であり、「俺=読者」が同じようなレベルででき

るかどうかということは主な主張ではない。

 

 つまり、「俺でもできそう」というのは、「お前、もう船降りろ」と同じようなもの 

で、「船を降りる」ことが主な主張ではなく、「船に乗る資格=プロとしての資格」が

足りていない、もしくは「実力が足りていない」ため評価するに値しないということを

婉曲的・皮肉的に表現したものである。

 

 ここからわかる通り、読者の主な主張というのは「実力が足りない、つまらない、プ

ロ失格、しょうもない内容、稚拙な文章力、プレー」であるから、批判を言われた側が

その批判に対して正当な反論をする場合、上記の主張に対するものでなくてはならない

のだが、何故か「読者が出来もしないのに批判している」という全く憶測で決めつけで

しかない何の根拠もない推測に基づいて、「じゃあお前やってみろよ」というわけであ

る。

 先に述べた通り、「俺でもできそう」という言葉をそのままの意味でとらえること

は、「ブブ漬け食べますか?」や「オタクのお子さんピアノ上手ですなあ」という皮肉

に対して、「食べます!(ありがとうございます)」や「そうですよね!最近上達した

みたいなんです」と返すようなものであり、文脈を読むことが出来ない人間のすること

である。

しかし、この「ほならね理論」がいくら論点ずらし(批判した読者の主張に対する正当

な反論になっていない)であるとは言え、なぜこのような言論が一定の評価を得られる

のかというと、それは国民の権威主義的な性格が関係していると考えられる。

それはしばしば「説得力」があるとか「正論」であるとかいう言葉で持ち上げられるこ

とが多いのだが、これらの言葉が用いられる場合、多くは「権威や能力が高く、社会で

の影響力が大きい人が言う言葉」は「成功者」による言葉であり、実体験(成功体験)

に基づくものである(と推測される)ため、「非常に説得力がある」ように思われると

いうことである。

ただ、考えてみるとこれらは本当に正しいと言えるかは疑問である。有名人や知識人と

呼ばれる人の中でも「専門外」の出来事や「成功体験」に基づく主張ではない(つまり

成功体験のない一般人が思いつくような言葉を並べ立てただけ)場合も多く、「成功

者」が「堂々と断言しながら」自らの主張を述べているからと言って、「でたらめ」や

「何の根拠もない憶測」であるということは否定できないにもかかわらず、それを否定

したり批判したりすることはとても大きなリソースとエネルギーを消費してしまうため

に、「成功者」や「影響力の大きい人が言っていること」は「正しい」という風に自分

の中で「決めつけ」ることで余計なストレスを生み出さないようにしているというわけ

である。

これは、ゲイやロリコンを「性犯罪者」「異常者」であると決めつけたり、「ギャル」

や「金髪」の人間を「不真面目である」「頭が悪い」と決めつけたりすることや、「正

義と悪」「善と悪」「善人とクズ」のように物事や人を「わかりやすく二分して考え

る」ことからもうかがえる。マナー違反(箸の持ち方や食べ方等)をしている人を「育

ちが悪い」「家庭環境が終わっている」とする考えもレッテル張りの一種であろう。

ゲイやロリコンを見るたびに「この人はまともな人かもしれない」、クチャラーや淫行

少女を見るたびに「でも中身は人格者であるかもしれない」と考えることは非常に脳に

負担のかかる行為である。

しかし、この「懐疑的な」「偏見を取り除こうとする」姿勢がなければ、権威主義的な

人間になってしまうのである。これはつまり権威主義者=考えることをやめた人間とい

っても差し支えないだろう。

こういった「説得力のある」詭弁は思考停止の権威主義的な人間によっていつの時代も

支持されていくものである。

追記:「ほならね理論」は皮肉をそのまま受け取るという「カウンター」的行為として

は誤りであるとは言えないが、これはあくまでも「皮肉をわかっていないふり」が出来

る者限定の技であるため、本当に皮肉だとわからない馬鹿者が使ってよい論理ではな

い。             
 さらにこの定型文は「俺のほうが上である」という権威性を示す際にはちょうど良い

が、いずれにせよ「論点ずらし」であることには変わりないので注意したい。
   
 そもそも「議論」をする気はない、「批判する奴の論理など屁理屈だ」という場合、

「スルーする」か「反論する」選択があるが、「反論する」場合にはこの理屈は使えな

いので注意したい。
 罵倒としての発言であれば理解できるが、しかし批判した人や論理的に考える者からすれば「論点ずらし」の「感情論」であるといわざるを得ないので気を付けよう。